Interspeech2014でシンガポールを訪れたときのお話.
シンガポールに来る度になんかのお祭りをしていて,この国は1年中お祭りをしているんじゃないかと思えてきます.8月は中元がキーワード,9月は中秋がキーワードでした.
日本にも同じ言葉は残っているけど,中元は日頃お世話になっている人に贈り物をする習慣,中秋はススキを飾って月を眺めて楽しむぐらいの意識しかなくて,何かをお祝いをするっていう雰囲気じゃない.
シンガポールには信仰に根ざした文化がまだ色濃く残っていて,日々の生活習慣と一体化している感じが素朴だなと思います.日本にも微かに残っている文化の源流を見ている気がして,面白い経験です.
こういう生活習慣が人間の営む文化の源流だと考えるなら,何らかの宗教的な考え方に帰依することで心の拠り所を持つという習慣は,人間が心の安らぎを保ち,平穏な社会を築くために不可欠な要素の1つなのかもしれません.
文明が発展すればするほど伝統的な宗教観は廃れ,その信仰の対象は科学的な世界の解釈に移り変わっていくというのは世界的な傾向のように思いますが,その分,世界に対する解釈の方法が本能的なものから,より理性的なものに変化していくように感じます.社会的アイデンティティやら何やかんやと,自らの行為や存在意義すら自分たちで決めたルールや価値観の上に定義していく傾向が強まるがために,生物としての本質をどんどん薄めていっているように感じます.
さらには,文化の発展の過程で保ってきた自然の摂理との密接な関わりがどんどん希薄になっているように感じます.ある意味,人間が進化の過程で生まれた生物の一種という存在から,人間が自ら定義した理論の上に作り出したアンドロイドに変化していっているかのように感じられます.
人間は自らが築いた文明に守られることで自然の脅威をある程度抑え込むことに成功し,より楽に生きられるようにはなりましたが,その分生物としての本能を弱め,ストレスやら悩みやら,自分たちで定義した文明社会のルールから生まれた精神的なしがらみに捕らわれるようになったのでしょう.
食うか食われるか,生死の境界がはっきりとした世界で自然の摂理に従い無心に生きるのと,自然の脅威を文明の力で抑え込みつつ,自分たちの定義した世界で自分たちの決めたルールに縛られながら生きるのと,どっちが幸せなのだろうかと考えたりするのです.