カメレオンの悩み

僕は,自分がカメレオンのような人間であると例えることがあります.

2つある目をわざわざ焦点が合わないように動かしてまで,周囲のありとあらゆる状況を察知しようとし,環境が緑色になったら自分の色も緑,茶色くなったら自分の色も茶,みたいなことを,神経をフル回転しながら常にやり続ける生物と言う意味でです.

これを言い換えるならば,十人十色の意見に常に耳を傾け,自分の意見はないがしろにしつつも,最大公約数,もしくは,最小公倍数を常に意識し,判断を下すということに対応します.

ありとあらゆるヴァリエーションの価値観でものを言う人々をまとめ,一つの方向性に持っていくためには,自分の意見を言うような余地はとても考えられず,常にそれらの調整に専念することで精一杯になって当然,という考え方が自分にはあったのです.いわゆる,「滅私奉公」という言葉に代表されるような哲学とでも言えましょうか.

でも最近,物事をまとめる人間とは,カメレオンであってはいけないのだなぁということを,痛切に感じるようになりました.

カメレオンなりの気持ちでは,世の中の自分以外の人が考える事は常に善であって,自分の考えることは悪である,だから,常に自分の気持ちを抑制してまでも,周囲の人の声に耳を傾け,一人一人の声が決して無視されることのない最大公約数,もしくは最小公倍数をとるべきである.ということになるのですが,それでは,何かを仕切って物事を進める上では,明らかに無理が生じるということに,気づいてきたのです.

例え自分は何かに秀でた有能な人間ではないと思い,何かを判断する十分な知識はとても持ち合わせないと思ったとしても,だからといって,全面的に自分以外の人が言う意見を受け入れ,調整すればいいというわけではなく,なにがしかの価値観と判断基準を持って意見を取捨選択していかなければ,物事はうまく進まないし,ある判断を下すことに対する周囲の信頼は得られないのだということを感じるのです.

そういう意味では,ある判断を人に委ねるだけではなく,自分が自信を持って判断を下すことをサポートする冷静な分析を常に忘れることなく遂行していかなければならないのだということ,言い換えれば,結局のところ,自分の脳みそを使って常に考え続けなければいけないのだなぁということを,実感させられるのです.

僕は,基本的にぐうたらな人間なので,自分の脳みそを動かすことは最小限になればいいなぁと,常に考えています.それに,自分より遙かに優秀な人々がいる世の中で,自分以外の人が考えた結果をうまく調整することができれば,物事はうまく回るに違いないと今までは思っていました.

でも世の中,意外とそうでもないのですね.自分以外の人が必ずしも完璧なわけでもないし,自分以外の人が判断したことを自分が取り入れただけだとしても,自分が判断したと言ってしまえば,結局その判断の責任は自分に降りかかってくるわけで,そんなリスクを負うぐらいならば,ちゃんと自分の頭で考え,判断を下した方が後腐れがないのです.

だから,多少「なんぎやなぁ」と思ったとしても,惜しみなく自分の計算リソースを提供すべきなのだなぁと思う,今日この頃なのです.

別に,特定の何かに対してこう思っているわけではなく,僕が生活する上での全ての事象に,この考え方は当てはまるなぁと実感しています.

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