文語が好きの巻

ただ単に懐古主義なだけかもしれませんが、僕は明治時代ぐらいの文語体が好きです。

なんというか、シンプルに文語体の日本語は美しいと思うからです。現代の日本語しか知らない人間にとっての物珍しさもあるのかもしれませんが、僕は、文語体の日本語は格調が高く、繊細で、表現が豊かだと思います。

もともとのきっかけは、ユーミンの「春よ来い」を歌うのが好きだったというのがあります。そして、自分にとってその歌詞がなぜ特別に感じるのかと思えば、それが文語体を混ぜて書かれているからだということに気づきました。この歌詞を現代の口語体で書いてしまったら、この歌が持つ、慎み深く、艶やかな人情の機微は伝わってこないのではないかと思います。

Neue Musik
Neue Musik

文語体で書かれた身近な歌といえば、文部省唱歌があります。中でも僕は、早春賦が好きです。植物や鳥を擬人化して、春を待ちわびる様子を描写している詞がとても愛情にあふれ、のどかで、日本人独特の、自然に対する親しみの感性を表現していると思うからです。

文語といえば、中学高校で読んだ明治文学の印象が強く、ただわかりにくい、読みにくい、というイメージしか持っていなかったのですが、年齢とともに、自分自身の感性が変化してきたのだと思います。

明治時代に言文一致運動を興し、日本語をシンプルにしようという日本人自身の考え方もありましたが、この独特の感性を完全に破壊したのは、戦後のGHQの統治後のことではないかと思います。確かに、日本語をシンプルにすることで、実用性を高めようという目標があったのかもしれません。性善説に立てば、アメリカも日本の将来にとって良かれと思ってやったのかもしれません。しかし、この効率化によって日本の伝統文化から失われたものも多いのではないかと思います。

この改革は、いわゆる現代のゆとり教育と同じようなものだと思います。現代の人間にとっては、昔の文語体は堅苦しく、小難しいと感じますが、反対の立場に立てば、昔の人間にとって、現代の日本語は何とも骨のない、間の抜けたものに映るのではないでしょうか。そして、その言語を操る現代日本人は、精神的に、現代日本語の有様に少なからず影響を受けているはずです。

言葉を失えば、感覚も鈍ります。言葉があれば、感覚を呼び覚ますことができます。文語体の文章に独特の印象を持つのは、まだ日本人の潜在意識の中に、日本人独特の繊細な感性を持ち続けているからだと思います。しかし、感じるのに、現代日本語では表現できないというのは、とても残念なことです。

現代の世の中は、スピードと効率を重視するあまり、自らの繊細な心の動きを顧みるような余裕もなくなってしまって、文語体のような表現はもはや必要としなくなっているのかもしれません。

でも僕の気持ちとしては、効率化なんてばかり言わないで、金銭でまかなえるような生活のクオリティは落としてもいいから、貴重な日本の文化は努力を払ってでも後世に継承していかなければいけないのではないかと思っています。

決定盤 日本の歌ベスト100
決定盤 日本の歌ベスト100

カテゴリー: 語学 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

*