大学の講義を英語化

これも面白いトピックなので、ついでに書いておきます。

【英語貧国ジャパン】(2)既に「標準語」の英語 理系学問の世界

英語シリーズの第2回のコラムですが、日本における理系の大学教育を英語化しようという話です。僕は理系ならばこれは当然の流れだと思います。さもなくば、日本の高等教育は日本の産業界でのみ活躍する技術者を輩出するか、「興味があれば自分で英語を勉強して先の課程に進んでください」程度の科学教育しか行わないことに等しいと思うからです。

論文は英語で書いておかなれば、研究者としての未来はないでしょう。なぜなら日本は特に、アカデミアにおける研究者に対する待遇が世界に比べて著しく悪く、自由に研究を行いたいと思えば、世界に出るのが当然の流れだからです。そして、さらに未来に世界のアカデミアで名を馳せるためには、英語の論文誌で認められることが最低条件となります。日本語の論文誌に採択されたところで、世界中の科学者のうち、ほんとに一握りの日本人学者にしか、目にとまることはないでしょう。同じ論文を書く努力をするなら、英語で書いた方がいいに決まっています。

日本語が滅びるとまで言うのは大げさです。英語と日本語両方使い分ければいいまでの話ですから。また、科学を記述するのに日本語で不自由しないことも事実だと思います。科学と英語の親和性云々で英語の優位性があるとも特に思いません。

問題は日本語で書かれた文章を理解する人口が世界で圧倒的に少ないということです。研究者も、マーケティングと同じで自分を積極的に売り込んでいかなければ、研究費獲得が難しくなり、立ちゆかなくなります。そして、マーケティングの基本は、周知してもらうことです。このために、英語で書かれた文章が自分を知ってもらうために最低条件であることは自然に理解できることではないでしょうか。

大学における英語教育によって、世界の研究者がどれだけ日本の研究環境に惹かれて集まるのかは、はなはだ疑問ですが、日本人研究者の未来のためにも、大学教育、特に理系教育は英語で行うべきだと思います。

アルク

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