日本人としてのアイデンティティー

スイスでは、やたらとSWISSMADEという単語を目にします。そして、SWISSMADEと書いてあると、なぜかその商品はいつも割高です。

街中で普段から国旗を掲揚している家があります。赤の地に白十字がプリントされたバッグやマグカップや旗が店で普通に売っています。

アメリカもそうですね、別に特別な時でなくても国旗を掲揚している家があります。学校の体育館とかには国旗が壁に張ってあったりします。

しかし日本でこれをやると、「あの人、ちょっと右っぽい人なのかしら。。。」という話になります。国旗を見るのは、そうですね、国民の祝日の都バス、大学の校門、卒業式とかぐらいでしょうか。

日本で旗を掲揚している家があるとすれば、それは青黄赤の三色旗であることが多く、日の丸であることはまずほとんどありません。

学校の卒業式では、国歌斉唱の際に起立しなかったり、そもそも斉唱を拒否することが、人と違っていることをやっている、信念(単に何かを強制されることに対する反骨精神?)を持っているという意味で、ある種、「格好いい行為」と思われたりすることすらあります。

国旗のプリントされたお土産物を買おうと思ったら、靖国神社に行くのが手っ取り早いでしょうか。。。

とまあ、日本の印象はこんな感じ。極端かもしれませんが。

僕は別に、右っぽい人でも、極端な国粋主義でも、天皇崇拝主義者でもありません。しかし、この慣習は非常に情けないものだと思います。日本人であることを誇りに思えないような、何か僻みっぽさを感じるからです。

スイスやアメリカで当然に行われていることが、日本にできない、というのはおかしいでしょう。

最近の上海万博でも、中国の対日感情を意識してかどうか名言はされていませんが、日本のパビリオンに国旗がどこにも掲げられていない、というニュースがあります。

ホント、アホじゃないかと思います。日本人の謙虚さは世界に希に見る美徳だと思いますが、完全に使い方を間違えています。何で、中国の対日感情が、日本の国旗掲揚を左右しなくてはいけないのでしょうか。自分の国の国旗を掲揚することは、ごく自然で、当たり前の行為のはずです。日本人が日本の文化を誇りに思い、そのシンボルとして国旗を掲揚するのは当然のことです。

第二次大戦中の記憶が障壁となっているのでしょうが、もう当事者はほとんどが高齢になり、死んでしまった今、そんな昔の記憶をいつまでも引きずっていても仕方ありません。日本政府が何かやらかしたといっては、東アジアで暴動を起こすのは、どうせ戦争経験もなく、偏った教育を受け、公平な判断をする知識を持ち合わせないような、ネット世代の最近の若者です。あまり深い理解とバックグラウンドがあってやっている行為とは思えません。

「日本の国粋主義=侵略、暴力、戦争」というトラウマはいい加減排除して欲しいと思います。東アジアの多くの国だって、外から見ればかなり国粋主義です。でも、同時に平和を希求しようと考えているでしょう。

一方、日本の学校では本当の歴史、戦時中の詳細な歴史を教えていないのです。それなのに、事実も知らないまま雰囲気だけで日本人が自虐的になるのは、いい加減止めた方がいいと思います。

なぜ、日本人はアイデンティティーに対する意識が弱いのか、それは日本人一人一人が日本に閉じこもっていて、日本以外の国の文化と関わる機会を避けているからです。単一民族の国家にあって、一見、直接の侵略の脅威もないような平穏な暮らしをしているので、特に自分が他人と違う、ということを意識しないからです。

だから、自分がどんな成り立ちを背景に持つ民族の人間で、世界の中での立ち位置がどうなっているのか、今後どうあるべきなのか、何に自分自身のよりどころを求めるべきか、ということに思いを巡らすことができないのです。そのために、国家というまとまりに対する意識が低いのだと思います。

放っておけば、海が外との関わりを隔ててくれる、という地理的、物理的な理由もあるかもしれません。

繰り返しますが、僕は排外主義的な意味での、狭義の国粋主義者ではありません。ただ、国旗を掲揚すること、国歌を斉唱すること、国の文化を押しつけではなく世界に紹介すること、国を守ること、日本人であることを誇りに思うことに対して、奇異の目で見る、もしくは特別な感情を抱くという習慣を極力排除したいと思っています。これらは平和を追求する気持ちと両立する、当然の行為だからです。

大戦中の大東亜共栄圏は、完全に文化の押しつけ、押し売り、侵略だと思います。現地の言語を尊重せず、無理矢理日本語を教えたり、勝手に政府を乗っ取ったりするのは、共栄とは言えません。背後に、日本文化が優れ、他国の文化が劣っている、という差別意識を感じます。これでは、共存、共栄ではありません。他国の文化は最大限尊重しなければいけないのです。これは言い逃れのできない事実です。ほんと昔の人はばかげたことをやってくれたものだと思います。このおかげで、人々の心理に禍根を残し、国際交流という意味で、後世の人間は大変な迷惑を被っているのですから。

もちろん、一部にはインドネシアの例のように、日本軍がオランダの植民地からの独立運動を手助けしたという、現地の人達の親日感情に今でも貢献している例もあります。当然、日本人が絶対悪というわけではありませんから、白黒つけられない問題であることも事実です。

しかし、こういった解釈が難しく、悪しき歴史と、国旗、国歌をもって、日本人のアイデンティティーを位置づけるということは、完全に別の話なはずです。

日本には世界に誇るべき、歴史、建築、文化、自然、安全、平和、調和、技術があります。優劣云々ではなく、ユニークである、貴重である、価値がある、ということです。この重要性を意識するには、世界から見た日本の視点が欠かせません。日本の持つ文化の特異性を当然のものと思わず、大切なものとして守っていくこと、その守ってきた貴重な資源を積極的に世界に紹介していくこと、その評判を世界からフィードバックしてもらうことが重要です。

日本という国のまとまりに自分がどう関わるのか、ということを考えたとき、日本人としてのアイデンティティーを持っているならば、日本人として、日本の持つ価値を落とさぬよう、自分としてできる努力をしようと思うのではないでしょうか。

誰かのために何かをする、という意識ではありません。国というまとまりが、個人、家族、友人、という和の広がりの延長線上にあるとして、自分一人ではできないから、みんなに協力を願う、みんなと協力をする、という意識です。この気持ちは、きっと生産的なものだと思います。自分のアイデンティティーを意識したならば、家に引きこもるなんてことをやっている場合ではない、と思い至るのではないかと感じます。

まずは、日本の首相に日本人としてのアイデンティティーを持ってもらわなければ(直近の選挙対策ではなく、日本の国防、日米安保の未来をどうしたいのかという視点で、在日米軍基地問題をどうしたいのか)、話が始まりませんが(笑)。

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