地震がきっかけだったのか?

いまさらなんですが,去年の地震があった時のことを思い出しました.

余震が続いているのに,会社に出勤しなきゃいけないような状況に置かれた時,原発が爆発して,放射性物質が飛んで来ているかもしれないような状況になった時,「会社」っていう形態で経済活動を営み,毎日オフィスに沢山の人が集まって仕事をする意味って何なんだろうと思いました.

世界中の人が繋がって,何かプロジェクトを成し遂げようと思えば,分野によっては,別に会社という形態を取らなくとも,オフィスに人が集まらなくても,大きな資本金がなくても実現できる世の中になってきているのに,こんな大量の人が雇用契約と勤務管理のもとに朝集合し,夜に解散し,という活動を毎日続けるのは,単に今までそうやってきたから,新しい方法を考えるのが面倒だから続けているだけの,惰性的な活動なんじゃないかと感じました.

しばらく続いた余震を体感しているうちに,人間が築きあげてきた文明社会が地面からひっくり返されるような感覚を持ちました.今まで当然だと思っていた便利な社会が,脆くも崩れるものだということを思い知り,文明社会を前提に自分が盤石だと信じている価値観なんかも,意外とすぐに壊れてしまうものなんだろうと感じました.

意外と人の命はあっけない,という事実を知った時,どんなにお金を稼ぎ,溜め込んだところで,災害で命を落としてしまったら,全く意味がなくなってしまうのに,自分の感情を抑えて,将来の人生を支えるため,社会人としてのステータスを途切れさせないために,無理して仕事してお金稼いで,自分は幸せなんだろうか,と思いました.

で,最終的には,自分探しに年齢は関係ないよね,という結論になり,今の状況に至ったように思います.自分が死んでしまうことと天秤にかけたら,何でもできるよね,自分の気持に素直に生きなかったら,人生という時間がもったいない,という極端な価値観にたどり着いてしまったわけです.

なんか青い発言続発ですが,素直にそう思ったのです.

苦労を知らない,世の中を知らない,向こう見ず,計画性なし,楽観的,鈍感,頭が悪いだけなのかもしれませんが,不安はあまり感じませんでした.会社を辞める決断するにあたって迷いはしましたが,それは,自分が欲張りだったからだと思います.

普通考えたら,今まで歩みなれた道を外れてしまうというのは,とても不安になることなんじゃないかと思います.

普通は現状の自分や環境に疑問を感じたり,もっと(一見)魅力的に見える生き方が見えかけたとしても,今まで歩んできた道を外れようとはそうそう考えないものだと思います.それは,ある場所に留まった時間が長かったり,築きあげてきたものが大きければ大きいほど,その留まり続けようとする力は大きくなるように思います.

自分の場合は,新しい道を歩み始めるリスク,将来の不確定性に関するリスクと,今のままの道を歩み続けることによる将来の見通しとを天秤にかけて,どっちが得かを考えたり,自分は新たな道を切り開くようなエネルギーをまだ持っているのか,将来的にやっていけるか,くじけないか,自分に負けてしまわないかなどの要素を考え,自分を見つめた結果,以下の様な考えに至りました.

金銭的な損得で考えたら,損の可能性が非常に高い.自分に負けてしまわないかを考えると,まあ,自分はそもそも体育会系じゃないし,病弱とは思わないけど,あまりタフな人間じゃないだろう.でも,このまま惰性的に歩むと,そろそろ自分の大きさを認識し,後は自分が縮小していくだけのような気がする.何か,折り返し地点を過ぎて,あらゆる意味でこれまでの貯金を食いつぶしていくだけの人生になっていくような気がする.今まで築きあげてきたものを失うことを恐れ,無難に世渡りするだけの人間になるような気がする.自分の信じている価値観なんてすぐに崩れ去るかもしれないのに,今まで築きあげてきたものにとらわれるのも馬鹿馬鹿しい.まだ別に安定は求めてないし,一度の人生,(それなりにも)安定性が保証された道を歩むのは,何かつまらない.自分の大きさを決めてしまうみたいで嫌だから,もっといろいろな世界を見てみたい.もう一回新しい環境に自分を置いて,異なる価値観に触れ,フレッシュな視点を持ちたい.

じゃあ,そういうことで...

というわけです.

30代半ばにもなって,まだモラトリアム的人生を歩んでいるのですね...自分でも変な人間だと思います.

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