大掃除

年末年始は、ひたすら実家の自分の部屋を大掃除していました。

恐らく、5年ぶりぐらいの大掃除です。しばらく部屋を使っていなかっただけあって、よくもまあこんなガラクタをとっておいたなぁと思うものばかりが山積みになっていました。。。もちろん、当時の自分にとっては大事なものばかりのつもりだったのですが、やはり5年も経つと技術が進歩して、代替技術が生まれてしまい、まったく必要なくなってしまうのですね。

典型的なのは、アナログ地上波テレビ放送に対応した機器達です。CoCoonなんかは、ソニーのひとつの歴史的な製品だと思っていたので、捨てないつもりでしたが、やっぱり邪魔なのでバラバラに分解して捨てることにしました。もうひとつはロケーションフリーのサーバです。これもソニーならではの個性的な商品だったのですが、今では様々なテレビチューナーデバイスが出ていて、PCで同じことができるので、要らなくなってしまいました。まったくもって、もったいない。

ちなみに、気に入っていた製品を捨てるときには、お世話になった機器達の供養のつもりでもあり、資源ごみをきちんと分別するという意味もあり、完全にバラバラに分解してから捨てています。何だかんだ言って、子供の頃から機械の分解は好きで、自分にとっては楽しみの一つなのです。そもそも、機器を色々と分解していると、機械がどう組み上がっているのかが分かってきて、分解手順の勘が身につきますし。

一方で、分解していると、色々なことを感じます。今とまったく異なる設計コンセプトを知って驚いたり、その古風さに古典を読んだ時のような感慨を持ったり、今なら洗練された部品が揃っているから、もっとシンプルな設計になるのに、当時はずいぶんと頑張って標準サイズの部品を無理矢理組み込んでいたんだな、とか、この機器はビデオ屋とコンピュータ屋が協力して設計したからこんなに設計思想に個性が出て混ざっているんだなとか、色々です。

昨年は何台か最近のiPodを分解してみたりしていたので、その設計を見た印象が頭にあって、何かにつけ比較することになり、いい意味でも、悪い意味でも、当時の日本製品は、今のAV機器の設計とは雲泥の差だなと感じました。具体的には1990年代後半から2010年ぐらいの電化製品の設計思想の変遷を目の当たりにしたことになるでしょうか。

1990年代後半のからくり人形のようなMade in Japanのメカを見て、当時の日本の生産現場の工員さん達の技量に感動したり、これを続けていたら、少なくともデジタル化の進んだAV機器に関しては、東アジア諸国やアメリカに負けるのは、必然だったのかもしれないと思ったりしました。

この感覚、終戦末期の日本軍の戦闘機開発の逸話を読んだときの感慨に似ています。要するに、新しい技術から遡って考えると、昔の技術は明らかに生産効率が悪く、職人技に依存しすぎているということなのです。戦闘機の例で言えば、日本軍の戦闘機は最後まで組み立て効率の悪いマイナスねじを使っていたのに対して、アメリカ軍の戦闘機はプラスねじを使っていたという逸話があります。(ドライバーをネジに合わせるまでに、平均でどれだけ回転させる必要があるかを考えても、トルクがどれだけ伝達できるかを考えても、プラスねじの方が有利です。)当時、戦闘機の設計をしていたある技術者は、墜落したアメリカ軍の戦闘機の設計を分析して、その生産効率の違いに敗戦必至を覚悟したという話を何かの本で読んだことがあります。

確かに、Made in Japanを実現してきた日本の生産現場の技術力は高く、目まいのするようなからくりでも難なく組み込む技術力を有していたのかもしれません。これは、明らかに世界に胸を張って誇るべきことだと思います。しかし、逆にそれが仇となって、技術の熟達していない一般人でも製品を組み立てられるようにしたり、繊細でアナログな機器の最終調整をする必要を無くすなどの、技術の単純化、効率化といった改善に無頓着になってしまったのではないかと、私は想像します。

というわけで、今の時代、技術のシンプル化、効率化は、世界と競争していく上で避けて通れない道なのでしょう。しかし、パソコンの使いすぎで漢字を書けなくなったり、携帯の使いすぎで電話番号を全く覚えなくなっているのと同様、効率化を進めれば進めるほど、人間の基本的な能力が何か、根本的に低下していっているような気がして、本当にいいことなのかなと思います。そして、代替技術があるから必要ないとは言いつつ、一度は一世を風靡した技術が失われていくのを目の当たりにするのは残念なことです。

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